スタッフメモ

あなたならどっち?

ある日、急に目の前が真っ暗になったことがある。

何にも予期せずに、いきなり視界を奪われて思考がストップした。えっ?私、貧血?と瞬きを数回してみた。すると、真っ暗だった目の前にうっすらと光が見えた。目の前が何かで覆われていて、それは細かい格子状の何かで隙間から光が見えていた。同時に、ガソリン臭が混ざった独特な臭いと左頬を押されているような感覚と痛みを感じると、ここでいきなり視界が戻り、明るくなった。

左側から、「すみませんっ!!」と男性の声がして、その人はいなくなった。

 

ここまで思考はストップしていた。フリーズしていた。視界を取り戻し、左頬をさすりながらも何が起きたのか理解できなかった。

 

そうだ、私は父親の運転する車の助手席に乗っていた。窓を開け、桜島の噴煙を見ながらガソリンスタンドに寄ったのだ。給油を告げると若い店員さんが勢いよくフロントガラスを拭く。神経質な父が洗車したばかりなのに、黒ずんだ雑巾で拭くとかえって汚れるのにと思いながら、フロントガラスに大きなのの字が勢いよく書かれる様をぼんやりと見ていたのだ。大きなのの字が左側で途切れたと思ったところで目の前が真っ暗になったのだった。

 

事務所の中から年配の店長らしき男性が出てきた。「あの~、うちのがどうもすみません」と言われ、やっと私は理解した。私の視界を遮っていたのは、若い店員さんがのの字を書いていた黒ずんだ雑巾だったのだ。フロントガラスを拭き、続けて助手席のガラスを拭くつもりが、開いた窓の外から私の顔に雑巾を思いっきり当ててしまったのだ。視界が奪われた時間が長く感じたのは、彼もしばらくフリーズしていたに違いない。

 

運転席の父親を見る。父は神経質なうえに短気だ。顔が赤くなり肩を震わせ、怒りをこらえているように見える。まだ思考がはっきりしていない私は、父が爆発するのではないかと緊張した。しかし、父は「いや、よかよか」と言い、給油を終えてすぐ車を走らせた。無言のまま1分も走らせただろうか。「あ~、もう我慢できん!」と車を路肩に停めてサイドブレーキを踏んだとたん、身体をよじらせ大爆笑した。父は怒鳴りたいのを我慢していたわけではなかった。

娘が雑巾で顔を拭かれたというのにひとしきり笑った後も、再び車を走らせながら時折思い出し笑いをする父。そんなにおかしいかとフリーズした私を客観的に見てみると、店員さんが雑巾を私の顔に載せたままの姿が静止画で想像できた。気分は良くはないが、客観的にみるとたしかに面白い。まだ鼻腔にはガソリン臭と雑巾の臭いが残っていたが、父の笑いにつられて私も笑いながら帰路に着いた。

家族からはしばらくの間、「ガソリンスタンドで顔を拭かれた女」と冷やかされたのは言うまでもない。

 

あれからずいぶん歳を重ねたが、あの時の店員さんが事務所に引っ込んで出てこなかったのはなぜだろうと気になっている。

『①やばい、怖くて出ていけない。』

『②笑いのツボにハマって笑いが止まらずに出ていけなかった。』のどちらかだと思うが、さて、どちらだろうか。

あなたならどっち?

K.K